Matsuwo's Works




 通勤途中,一匹の野良猫に名前をつけた。前足と目のまわりが黒く,スプーンのような瞳をした猫だ。命名の日以来,その猫はよく動き回るようになった。塀の上で惰眠を貪る。路上で不敵な座り込みをきめる。この前などは,堤防から丘の方を凝視している彼(?)に会った。おい,と声をかけると,侮蔑するような目線を投げた後また遠方を見やる。潮風に吹かれ彼は人生の先達のようであった。しかし彼は構えず,自然体である。動き回るようになったのは,彼ではなく,私の彼への目線であり意識であった。
 言語とは,そういう力を持つ。
 先ほどの猫は私が名前をつけたことにより,ごくありふれた野良猫の中から「個」として私の前に立ち現れた。昨日はそこ,今日はここと,その存在がクローズアップされてくる。
 昨今ディベートなどに見られるように,言葉はよりシステマティックに使用されようとしている。言葉が模糊とした概念の贅肉を削ぎ落とす道具として使用されているのだ。これは他でもない,我々の目線がその概念へ確実に送られるようになるということである。
 1960年代高名な哲学者が,日本の美意識は,明確な意味づけを避けることに有りと指摘した。それから30年,世は激変していこうとしている。
 その際,旧来の観念も,あの猫のように毅然と胸張って立っていられるであろうか。